2017年12月6日水曜日

淡い期待。

絶賛試験勉強中の長女。
数学の内容は僕が高校で教科書を開くのを
諦めた変な記号が一杯出てくるもので
娘から僕への質問は一切なし。
次女が塾で習う算数も答えるのがそろそろ
危うくなってきました(苦笑)。


なのでわからない時は『リケ男』おじいちゃん
のもとへ・・・。
どんな難問にもさらっと答えてくれるそうで、
面目丸潰れだけどとても頼りになります。


叔父と母方の祖父のことを話していて
今更ながら1900年生まれの祖父と
干支が同じことに気付きました。

6まわり違いのねずみ。
祖母もちょうど祖父と1まわり違うので
これまたねずみ。
気付いてみると思い当たるふしがあります。


祖父は小学校を卒業して四国から上京し
洋服の仕立屋に弟子入り。
(弟子入りと給料なしとのこと)
修行を積み、帰郷して戦前にテーラーを開業。
職人をずらっと並べていたと自慢してました。
戦時中は洋裁を応用して防弾チョッキを考案し
販売。満州まで営業に行っていたとか。
満州行商にも使ったトランク。叔父から譲り受けました
これは結構売れたと本人が述懐してましたが
叔父曰く、
『実用性はイマイチ』とのこと。
戦後、財産を没収されまた1からのスタート。
今度は当時流行のダンスホールを始めこれが
大当たり!!
資金をもとに広い土地を購入し、流行が冷めた
ダンスホールから旅館経営に切り替え。
そしておそらくちょうど僕が産まれる頃、
齢70前後にして佛教大学の通信教育で
書道を学び、晩年は書道教室を開いてました。
(奇しくも僕は同じ大学へ通うことに)

僕が物心ついた頃、田舎へ帰ると玄関先には
元気なのにしかも正直あまり似ていない(笑)
祖父の銅像が鎮座していました。




ちょっとそこまでにも自ら仕立てた一式を纏い
帽子とステッキ。
自分のスタイルを貫いていました。


そんな、年齢も気にせず一生懸命に生きていた父親を持ったのは励みになると、
成長?した僕に話していた母も
店を始めたのは50歳前後。


彼女は某国立女子大にストレートで入学するも
色々あって、結局つまらなくて退学してしまう
なかなかの曲者。先述した家内の父のように
何を質問しても答えが返ってきて、
その答えが教養深くて難しく
聞いた僕は言ってる意味が全くわからない、
なんてこともよくありました・・・(笑)

店を通じて出会う名もなき一つひとつの
人生も等しく起伏に富んでいて
学ぶことの多い日々。
ワネストを巣立ったご夫婦と再会し
楽しい時間をいただき、その夜は同じく
ワネストから一歩踏み出した
"元"勇猛果敢、支離滅裂な方から(笑)
その奮闘記が送られてきて...



『あーあ、どーしてパパに”いでん”
しなかったんだろうなー』


などと首をすくめる次女。
よくパパと同じ地雷を踏んで
ママの逆鱗に触れておりますが・・・


おでこの形は間違いなくおじいちゃん似。
娘達へ良き遺伝もあれば、と淡い期待を抱く


母の命日、12月6日。


Ted

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